あれこれ考えた末に、弥生は外を歩き回るのをやめることにした。こんな夜更けにまで、彼女の安全のために警備についてくれている人たちがいるのに、自分が勝手に出歩けば、迷惑をかけるだけだと思ったからだ。気持ちを切り替えた弥生は、近くにいた警備員に声をかけた。「じゃあ、あまり歩き回らないことにするわ。でも、一つお願いがあるの」「霧島さん、私たちはみんな社長のために動いています。あなたは社長にとって、大切な人ですから、私たちにとっても大切です。何でも遠慮なくお申し付けください」「......もし健司が来たら、少しだけ会わせてもらえる?」「もちろんです。今すぐ連絡してみます」「わざわざ連絡しなくても、通りかかったときでいい......」弥生がそう言いかけたときには、警備員はすでに携帯を取り出して電話をかけていた。「はい、霧島さんがお会いになりたいそうです。今来られますか?」まあ、いいか。その対応の早さに、思わず心の中で感嘆した。「霧島さん、すぐ向かうとのことです。お部屋でお待ちください」「はい、ありがとう」そうして部屋へ戻った弥生は、ソファに腰を下ろして健司を待った。数分後、ドアがノックされた。弥生が開けると、そこにはすぐに健司の姿があった。「霧島さん、お呼びですか?」弥生が開口一番に尋ねたのは、やはり彼のことだった。「瑛介......まだ何の連絡もないの?」その問いに、健司は息を吐き、静かに首を横に振った。「まだです。霧島さん、夜も遅くなってきました。今はお休みになった方がいいかと。何かあれば、すぐにご連絡しますので」弥生も分かっている。彼が戻ってきたら、誰に言われるまでもなく、きっと自分のもとに真っ先に来るはずだ。連絡がないということは、まだ戻れていないということ。でも、それでもやっぱり、心配せずにはいられない。ここが日本ならまだしも、海外で何が起きてもおかしくない。その不安がまた顔をのぞかせたとき、弥生は唇を噛みしめて言った。「......こう言うのは失礼かもしれないけど、こんなに人がいるなら、何人か助けに行かせることはできないの?」その問いに、健司は少し困ったように首を振った。「......霧島さん、その気持ちはよくわかります。ですが、社長は絶対にそれを望ま
「こんにちは、そんなに緊張しなくていいよ。リラックスしてね」そう言って、医師はひなのの前にしゃがみ込み、彼女の右足首をそっと握った。「怪我したのは、こっちの足だよね?」足首に触れられた瞬間、ひなのはびくっと体を強張らせて服の裾をぎゅっと握りしめ、小さくうなずいた。医師はひなのの足首を丁寧に観察し、あるところを軽く押さえた。その瞬間、ひなのの体がぴくっと震え、「痛い......」と叫び声をあげた。弥生はすぐにその声に反応し、手を差し出してひなのを抱きしめた。その様子に、彼女の胸は痛みで締めつけられた。「ここが痛むみたいね。他のところも痛いかな?」入念な診察の末、医師はこう告げた。「ご安心ください。大きな怪我ではなく、軽い捻挫です。お薬をお出ししますので、数日ゆっくりお休みいただければ大丈夫ですよ。ただ、しばらくの間は無理に歩かないようにしてくださいね」弥生は丁寧にお礼を言い、医師は薬を処方して部屋を後にした。それまでの診察で、すでに30分ほどが過ぎていた。医師が帰ったあと、弥生はひなのを元の場所に連れて戻り、膝に抱きかかえるように座らせた。「ひなの、今度ケガしたら、ちゃんとママに言ってね。我慢しないこと、わかった?」ひなのは今回でしっかり反省したようで、素直にうなずいた。「わかったよ、ママ」「じゃあ、さあ、早くご飯食べて、食べたらお兄ちゃんと寝ましょうね」ひなのはスプーンを手にしたが、動かさずに弥生をじっと見つめ、ぽつりと聞いた。「ママ、寂しい夜さんはどうして一緒じゃないの?どこ行っちゃったの?」その質問に、弥生自身も聞きたいと思っていた。ここに戻ってきてからもう随分経った。道中の時間を合わせても、そろそろ何か連絡があってもおかしくないはずなのに......心配でたまらないけれど、子どもたちの前で不安な顔は見せられない。弥生は娘の頭を撫で、優しく答えた。「寂しい夜さんはね、お仕事でちょっと出かけてるの。今夜は先に寝よう。朝になったら、きっとまた会えるわ」「うん」なんとかふたりを寝かしつけた弥生は、ようやく部屋が静かになったのを確認し、そっと立ち上がって部屋を出た。この場所は、まるで小さな拠点のようにしっかり整備されていた。建物の構造も厳重で、外部からの侵入は
でも、その笑顔はほんの一瞬しか続かなかった。再び、弥生の心に瑛介への心配が押し寄せてきたのだ。そんな彼女の表情の変化に、さすがに気が利く健司はすぐに気づき、すぐさま声をかけた。「ご安心ください、霧島さん。社長は、確信がないことは絶対にしない方ですから」「うん、わかった」弥生は頷いた。彼と付き合いの長い彼女には、それが事実であることはよくわかっている。瑛介は、常に綿密な計画と確信のもとに動く男だ。それでも、弥生は心配していた。実際、瑛介が現場に残ったことで、こちらの逃走は驚くほど順調だった。無事、安全な場所に到着し、健司は弥生たち三人を部屋に送り届けた。すでにかなりの時間が経っていた。健司が部屋を出ようとしたとき、弥生はふと呼び止めた。「彼......いつ戻ってくるか、わかる?」「それが......」健司は少し困ったように首を振った。「正確にはわかりません。ただ、片付けが済み次第、すぐに戻るとだけ......」「まだ、連絡は来てないの?」「霧島さん、ずっと一緒に行動してましたよね? 今日、僕のスマホが鳴ったのは一度だけ。それも、尾崎さんからの電話です」その言葉に、弥生の目に宿っていた微かな光が、そっと沈んでいった。ちょうどその時、健司のスマホが鳴り出した。弥生の顔がぱっと明るくなった。「彼からの電話?」だが、健司が画面を確認し、すぐに答えた。「いえ、違います」その瞬間、弥生の輝きかけた目が、また静かに暗くなった。「......そう」健司は画面を見ながら、少し申し訳なさそうに尋ねた。「霧島さん、他にご用がなければ、そろそろ私は失礼します」「ええ」弥生が頷くと、健司は静かに部屋を出ていった。その後、弥生は大きくひとつため息をつき、扉を閉めた。部屋の中はきれいに整えられていた。最初は、避難のために用意された部屋だと思っていたが......中に入ってクローゼットを開けた瞬間、それが間違いだったと気づいた。そこには、きちんと整理された男性用の服が並んでいた。これは、瑛介の部屋だ。健司は、彼女たちをそのまま瑛介のプライベートルームに案内したのだった。すでに夜も更けていた。今日一日、子供たちはずっと走り回っていて、ぐったりと疲れきっ
自分の名前が呼ばれるのを聞いて、弥生は顔を上げ、健司の方を見た。「誰から?」健司は携帯をそのまま彼女に差し出した。「霧島さん、尾崎さんからです」「由奈?」その名前を聞いた弥生は、すぐさま携帯を受け取った。「由奈!」「弥生!!」受話器の向こうで、周由奈の声は弥生以上に興奮していた。「瑛介がついにあなたを見つけてくれたのね! 本当にごめん、道中で車が故障してしまって......もう最悪。助けに行くタイミング、完全に逃しちゃって......でも、本当に良かった!瑛介が間に合って!」「故障してたの?」やっぱり......だからずっと来なかったのか。「今はどこにいるの?」「大丈夫、うちの社長がいるから何とかしてくれるって。それに、ちょうど健司の電話が繋がって、こうして話せてるし」「それなら良かった」「こっちが落ち着いたら、すぐ会いに行くから!」「うん、待ってる」ふたりは少し会話を交わしてから電話を切った。車が故障していたという由奈の事情もあり、今は無理を言うわけにもいかない。携帯を健司に返しながら、弥生はふと疑問を口にした。「......どうやって私の居場所を見つけたの?」健司は携帯をしまいながら、穏やかに答えた。「ずっと尾崎さんが情報を提供してくれていたんです。旅館にいるという情報が入ったとき、すぐに駆けつけました。ですが、到着した時点では霧島さんの正確な場所までは分かっておらず......その後も、尾崎さんが電話で知らせてくれたおかげで、ようやく辿り着けたんです」「なるほどね」それを聞いて、弥生もようやく全貌を理解した。瑛介はずっと自分を探していた。ただ、自分がそれを知らなかっただけ......彼に連絡しようとしたとき、彼は電話に出なかった。だから弥生は、それ以上瑛介に頼ることを避けた。せっかく助けを求められる数少ないチャンスを、無駄にしたくなかったから。そんなことを考えていた弥生に、健司がタイミングよく訊ねた。「......霧島さん、どうして社長に連絡しなかったんですか?」「連絡したわよ。でも出なかったじゃない。それに、私はあの時かなり危なかったのよ」弥生がそう答えると、健司は少し気まずそうに鼻をこすった。「......その件については
弘次の命令を受けて、連中たちはついに満足げな笑みを浮かべた。彼は視線を弥生に向け、大きく腕を振り上げて叫んだ。「行けーっ!!霧島さんと子供たちを、黒田さんのもとに取り戻せ!」その瞬間、弥生は何かがおかしいと直感した。言葉を発する間もなく、腰をすばやく瑛介の腕が引き寄せた。「行くぞ」彼の声と同時に、弥生は慌てて陽平の手を引いて踵を返した。「奴らを止めろ!」普段は穏やかな健司も、怒声を張り上げて追いかけてくる。出発前から想定していた、もし衝突が起きた場合、最優先すべきは弥生たちを安全に脱出させること。そのために、誰かがその場に残って戦線を引き受ける必要がある。弥生も、敵が動き出したのを見て、彼らの意図を悟った。気づいたときには、すでに車に押し込まれていた。まだ座りきられていないうちに、ひなのと陽平も一緒に車内に入れられ、健司がすぐに助手席へと乗り込んだ。弥生は当然、瑛介も一緒に乗ると思っていた。だが彼はドアを閉めもせず、立ったままそこにいた。「あなたも来るんでしょう?」彼女の目が不安そうに彼を見つめた。「健司が君たちを安全な場所に連れて行く」弥生の眉がきゅっと寄った。「......じゃあ、あなたは?」「僕の方のケリがついたら、すぐに向かう」弥生は唇を噛みしめた。何と言えばいい?「一緒に来て」と懇願すればいいのか?「あなた......」言葉に詰まる彼女の唇に、突然瑛介の顔が近づいてきた。彼の大きな手が彼女の後頭部をそっと押さえ、そのまま彼女の唇にキスを落とした。思わぬキスに、弥生は息を呑んだ。反射的に突き放そうとした時には、彼はもう唇を離していた。けれど去らず、額を彼女の額にそっと押し当てたまま、かすれた声で囁いた。「待っててくれ」そう言って、ゆっくりと彼女の後頭部から手を放し、健司に向かって命じた。「彼女と......僕の子供たちを守れ」健司はすぐに頷いた。「任せてください。命に代えても、霧島さんをお守りします」そして、瑛介は弥生の視線の中、静かにドアを閉めた。弥生は窓に張り付き、彼の姿を見続けた。その体が視界から完全に消えるまで......「霧島さん、ご心配なく。社長ならきっと無事です」前席から健司の声が優しく響い
遠く離れた場所から、弘次はふたりの密なやりとりをじっと見つめていた。その手は知らぬ間にぎゅっと拳を握りしめていた。自分のそばにいた時、弥生は一度でもこんなふうに、静かに、心を開いて話しかけてくれただろうか?胸の内で嫉妬が急速に膨れ上がってきた。それはまるで、瞬く間に心を覆い尽くす巨大な樹木となっていった。その様子をそばで見ていた部下の目が鋭く光った。「やはり霧島さんたちが傷つくのを心配されてるからでしょう?でも実際は、うちの連中も、向こうの連中も、誰も霧島さんに手出ししたいわけじゃないんですよ。つまり、もし戦闘になったとしても、彼女と子供たちは安全ってことです」「でも、動かずにいればこのままずっと膠着か、向こうが彼女を連れ去って終わりです」弘次は沈黙を保っていた。確かに、今まさに決断に迷っているようだった。部下は彼が揺れているのを感じ取り、さらに言葉を重ねて煽った。「よく考えてください。もしあのまま霧島さんを連れて行かれたら、次はもうないかもしれません。今しかないんです。今ここで手を打たなければ......」「これが最後のチャンスなのかもしれない」その言葉が、弘次の心に深く突き刺さった。彼の視線は、瑛介に手を引かれている弥生の細い身体に向けられていた。薄い唇は一文字に固く結ばれていた。そうだ。これが最後の機会かもしれない。もし今、彼女を瑛介に連れて行かれてしまえば、もう二度と、自分のそばに戻ってくることはないだろう。「みんな揃ってます。あとは黒田さんが命令を出せば、命を懸けてでも彼女を奪い返してきます」「奪い返す」という言葉が、まるで刃のように弘次の胸を貫いた。「人数はうちの方が多いんです。絶対に成功します。もう、迷う必要はありません」しかし弘次の視線はまだ、弥生と瑛介がつないだ手を見つめ続けていた。もし、今、彼女の隣に立っているのが自分だったら。もし、自分が彼女の手を握ろうとしたなら、彼女は応じてくれただろうか?......いや、きっと無理だ。きっと眉をひそめ、迷いもなく手を引くだろう。五年の時間を重ねても......彼女の心は、少しも自分に向くことはなかったのだ。この五年間、自分は彼女の心を少しも温められなかった。そんな回想だけでも、胸がずきずきと